いつもcolobockleをご覧くださり、ありがとうございます。
2023年4月より、colobockleの撮影内容は大きく変更になります。
撮影枠は土曜日と平日、10時からの1日1枠のみ、月に6件までとさせていただき、料金も改定しました。撮影枠がぐっと少なくなる理由は、私が15年ぶりに企業へ就職し、4月から仕事がスタートするためです。
今日は次男の学校は9:10下校で9:30には帰宅したので、娘と一緒にサイクリングに出かけました。
原っぱや山で遊んでから、
海へ。
いま、帰りの自転車で寝落ちした娘の傍らで、現像作業をしています。
ずっとこうやって、いつも子どもと一緒にいる生活をしてきました。15年間見続けた朝のEテレでは、何人の卒業を見送ったことでしょう。
どのママもみんな、何かしらのジレンマと迷いを持ちながら生活していることと思います。何かの参考になればと、colobockleをはじめたいきさつから再就職までをまとめてみましたので、ご興味のある方はお目通しください。
撮影枠の減少によりご不便をおかけしてしまいますが、何卒よろしくお願いいたします。
colobockleのはじまりとこれから
長男の出産と退職
今から15年前の2008年、私は長男を出産し、育休明けに当時勤めていた会社を辞めました。
あのころは出産を取りやめる病院の増加が社会問題となっていて、私も検診に通っていた病院が途中で産科が廃止になるなど、安心して産むこと自体が難しかった記憶があります。同時に、深刻な待機児童問題が連日のように報道されていました。
当時住んでいた都内では、育児休暇が終わる1歳に保育園に入園させることはまずできないので、生後半年くらいでマンションの一室などにある「認証保育所」に預けて点数を稼いでから都立の保育園に転園させるというのが一般的でした。その認証保育所でさえ、良い環境のところは「100人待ち」なんていう、厳しい状況だったりしたものです。
私も産後、復職に向けて10か所以上の認証保育所を見学して回ったのですが、見学をしていくうちに、復職の一歩を踏み出せなくなってしまいました。
出産するまで、私はよく働きました。
就職氷河期ど真ん中の2001年、有効求人倍率0.46(今年2023年は1.5)の年に美大のデザイン科を卒業。なんとか医療機器メーカーに就職できたものの、女子社員は職種を問わず毎朝、男性社員の好みに合ったお茶を淹れて配ることから始まりました。女子社員は全社会議にも出席できず、会議室の隣室で飲食の準備をするのが役目。悔しさから始まった社会人生活だったこともあり、全力で仕事に向き合いました。深夜残業も出張も喜んで。次第に仕事を任せてもらえるようになり、大阪転勤も経験し、週末には専門学校にも通い、企業広報担当の編集者に転職しました。
クライアントのいる仕事だったため、おなかが大きくなっても23時頃まで仕事に追われたのものでしたが、男女の区別なく頑張れば評価される世界は楽しく、子どもを産んでもそれまでの生活を続けるつもりでした。しかし産まれてきた我が子に、世界は根本から覆されました。子どもは、手にしたもの、目にしたもの、周囲にあるものすべてを栄養として取り入れながら、毎日毎日成長していく、強烈なエネルギーを持つ生き物だったのです。彼にとって、風のにおい、空の色、水の感触、葉っぱの温度、ひとつひとつが栄養なのだということが、そばにいてわかりました。
職場には子育て中の社員は少なく、相談した他部署の先輩ママ社員は毎日20時にお迎えし夕食も一緒にとらないとのこと。「私が仕事に戻ったら、この子に「はやく」しか言えなくなってしまう」と感じました。迷った末、「ここなら」と申し込んだ保育所に入れなかったこともあって「仕事か子育てか」の2択から、私は子育てを選びました。
復職できない!M字型労働曲線
それから私は、毎日長男とどっぷりと一緒に過ごしました。毎日午前中から外を走り回り、たくさんのママ友ができました。言葉でコミュニケーションを取るようになる以前の子どもと意思疎通のできる面白さ、1日1日成長する姿を見守れる奥深さは、それまで子どもに興味を持っていなかった私には新鮮でした。
また、「子育て」というのは自分の子どもを育てることばかりを言うのではなく、地域のなかで人と人がつながり支えあうことで、安心して暮らせる社会をつくる一員になることでもあると知りました。それでも、あくまでこれは一時的な姿だと捉えていました。1~2年のうちには再就職するつもりで、お昼寝中や寝かしつけ後に英語の勉強をしてTOEICを受けたり、民間資格を取ってみたりしていました。
ところが再就職は、とても難しいことでした。
まず子どもを産んだ私は、それまでの私とは価値が全く違っていました。親しくしていた企業からも門前払い。子どもがいるというだけでこうも戦力外かと愕然とするくらい、不採用通知を何通も受け取りました。
就職先の決まらない状態では保育園に入れません。でも幼稚園は驚くほど時間が短い。急な子どもの体調不良や行事にも対応でき、短時間で帰れる仕事となったらパートしかありません。つまり、成果が求められない、簡単な、安い仕事です。私はそのときにはじめて、日本の産業が「M字型労働曲線」に支えられて成り立っていることを知りました。
日本では女性が出産を機に仕事を辞めます。その後子育てがひと段落したら復帰するので、労働人口としてはMの字になります。ただし、Mの字の右側はパートなどの非正規労働で、賃金としては左側よりずっと低い。この「女性の安い労働力」がある前提で、経済活動は成り立っているのです。
「これからどう生きればいいんだろう」と思うくらい、人生に目標を持つことができなくなりました。
おばちゃん学生のスタートと休学
この壁に私は勉強で向き合うことに決め、2012年、長男が3歳半のときに看護大学に入学しました。
もともと命の現場に興味があり、長男と一緒に経験した東日本大震災では自らも被災者でありながら周囲の人たちを支える医療従事者の姿に感銘を受けたこともあって、医療現場で働きたいと思う気持ちがありました。
学生でいれば夏休みや春休みなどに子どもと一緒に過ごすこともできるし、それでいて子どもが小学生になるころには資格を持って第一線で働くことができます。育児の合間に英語の勉強をしていたことと、会社勤めの傍ら編集ライターの学校に通ったことが功を奏し、神奈川県立保健福祉大学の看護学科に合格することができました。
看護大学では、看護師と同時に、保健師と助産師の資格も受験することができます。私は終末期訪問看護の職に就きたいと思い、夢中で勉強しました。授業内容は厳しくて難しかったですが、目標を持てることにより安心感を得ました。
その安心感からか、大学2年生になったときに5年ぶりに第2子を授かりました。それ自体は嬉しいことでしたが、これが大きなブレーキになりました。後期試験の日程の一部が出産予定日と重なってしまったのです。
大学を辞めるつもりは全くなかったので、つわり中の前期試験と前期の実習はクリアしました。でも出産日と試験日が重なってしまったら自分ではどうしようもないので、そうなった時は前後にずらして受験できるよう考慮して欲しいと相談に行きました。ところが、大学側の答えはNOでした。反対に強い口調で休学を求められてしまいました。
次男の出産と起業
やむを得ず休学手続きを取ると、今度は区役所から、「保育要件がなくなったので保育園を退所してください」と言われてしまいました。待機児童のいる1~2歳ならまだしも、長男はすでに年中さん。他の子が卒園に向けて一丸となって取り組んでいくなか、長男だけ退園させられて家で過ごすなんてかわいそうです。
「どうしたら続けられますか?」と窓口で尋ねると「働いてください」とのことでした。これから子どもを産む人がどうやって就職できるというのでしょう。
出産までは特例措置と産前産後8週間要件を組み合わせて保育園を続けられましたが、産後は4週間しかありません。とにかく仕事をと、休学中から業務委託でヘルスケア関連の記事を書く仕事を始め、2014年3月に次男を産んですぐ、次男を抱いてハローワークに行きました。ところがこれがまた、キツい経験となりました。
まずは受付窓口で書類を受け取った方は、「あぁ、前の仕事をお辞めになって5年も経ってるんですか」とため息。続けて通された相談窓口の方も、「この条件だったら、赤ちゃんいない人が他にいくらでもいるんですよね」とバッサリ。
求人情報を受け取ることもできず、まさに八方ふさがりになってしまいました。
「私のせいで長男の場所を奪ってしまう」と自分の選択を責めるうち、情けなさがだんだんと怒りに変わって来ました。
「一生懸命仕事をしたし、仕事を辞めたあとだって一生懸命子育てをしていた。なのになぜこんなに見下されなきゃならない。認めてもらえる場所がないなら自分でやるしかない」と、それまで考えたこともなかった「起業」という方向が産まれました。
個人事業主のスタート
自分にできそうなことを絞り出し、編集とデザイン、取材とライティング、そして写真撮影をメニューとして、2014年7月に生後3か月の次男を抱いて開業届を出しました。じつはこのとき、私はまだ一眼レフカメラを持っていませんでした。長男を産んでから4年間1日も欠かさず写真ブログを書いたり、育児支援施設に写真集を作ってプレゼントするなど写真は身近な存在ではありましたが、仕事として写真の撮影をしたことはありませんでした。
仕事のメニューに撮影を加えてから一眼レフを買い、仕事を受けながら「もっと上手にとるにはどうしたらいいのか」「私の写真とあの写真は何が違うのか」「どうしてあのフォトグラファーは人気なのか」と研究を重ね、次第に思うような写真が撮れるようになり、撮影の依頼が増えて行きました。
チラシやホームページを作って集客も始めましたが、いちばん私を支えてくれたのは、一緒に子育てをしてきたママ友たちでした。モデルになってくれ、私のことを広めてくれました。私も精いっぱい、すべてのご依頼に満足していただけるよう全力を注ぎました。そして、助産院や子どもの通う保育園、幼稚園、行きつけのお店など、子どもと一緒に関わる先々から、少しずつ仕事の範囲が広がって行きました。
私の仕事には、いつも子どもたちがそばにいました。子どもを背負って撮影に行ったことは数知れず、出産の立ち合い撮影では、早朝に子ども2人と朝食とランドセルを持って助産院に駆け付けたこともあれば、夕食中に皿ごと持って子どもを連れて駆けつけたことも。企業での打ち合わせや撮影に子どもたちを連れて行ったことも何度もありました。
自宅のなかにフォトスタジオを作るとさらにオンオフはなくなり、ご飯をつくり洗濯物をたたみ、授乳しながら写真の現像を並行するような生活になりました。あわただしくも子どもたちの成長をそばで見守れる日々は楽しく、子どもたちの「ママかっこいい」という言葉が支えになってくれました。
一方で実は、2018年10月に出産した3人目の子どもを授かった時は、「産もう」という決断をすんなりとはできませんでした。もういちどブレーキがかかるのがつらかったからです。でも自宅を拠点にしていたおかげで出産直前まで仕事をして、産後は撮影中に赤ちゃんを見てくれる人に来てもらうことで1ヶ月半後から再開することができました。
横浜ビジネスグランプリ2020FINALで女性起業家賞を受賞した抱っこ紐も、ずっと子どもと一緒に過ごす生活をしてきたからアイデアがわき、形にすることができたもの。女性にとって出産は、挫折とチャンスと、両方の顔を持つ大きな転機だと感じています。
社会の変化と再就職
たくさんのお客さまに支えていただき、個人事業主の仕事はある程度軌道に乗せることができました。
でも・・・
本当はずっと、私の中には「もう一度社会のなかに戻りたい」と思う自分がいました。
自宅のなかに仕事場があれば子どもたちのことには対応できるけれど、世界が狭くなります。本来いるはずの私という人間が、「母親」という被り物をしたまま姿を現すことができなくなっているような孤独を感じていました。
母親として子どもを健やかに育てたいと思う気持ちと、
社会の中で能力を発揮し自立していたいと思う気持ち。
同時にかなえることが難しい両者のはざまで、15年が経ちました。
この15年の間に、社会が変わりました。
団塊の世代が退職し、働き手が減りました。
過重労働が問題視されるようになりました。
保育園や学童保育が増え、3歳児以上の保育料が無料になりました。
スマホが生まれました。
SDGsなんて言葉も生まれ、新しい企業もたくさん生まれました。
そして、3年間のコロナ禍を経て、時間と場所を問わない働き方が生まれました。
この変化のなかで、私は時短勤務とリモートワークを併用するかたちで、2023年4月に、14年と7ヶ月ぶりに就職することが決まりました。2018年に厚生労働省の規定変更により副業が解禁されたこともあり、colobockleも続けられます。
世の中はどうなっているのかな?若い人たちはどんなふうに仕事に向き合っているのかな?
子育ても少しずつ落ち着いてきたこれからは、企業が事業が成長していくのを一緒に育てて行けたらいいな、と思っています。
これからも撮り続けます
2022年の出生数が80万人を切り、少子化が深刻な問題となっています。
母親になれて幸せだと断言できる私でも、子どもを産んで育てることは難しいと感じます。
上記にはお金に関することは書きませんでしたが、出産にはまとまった金額を支払う必要があったり、個人事業主には出産育児保証が一切なかったり、兄弟の年齢が離れているために第3子であっても第1子の保育料を支払わなければならなかったり、学校以外に塾や習い事は必須であったりと、子どもをもつことに伴う金銭的負荷も大きすぎます。
大きな出費とキャリアの断絶を同時に受け入れ、無理をし続けなければならなくなるくらいなら、子どものいない人生を選ぶのはやむを得ません。
でも、子どもを産み育てることは、素晴らしいことです。
子どもは可能性の宝庫。
大変だけど楽しくて、子どもの存在がこちらを変え、育ててくれます。
どんな大変な時代も、過去からずっと、子どもを育てて次の世代につないできたから今があるのだし、これからの未来のなかにも子どもたちの声が響いていて欲しいです。
だからこれからも、一生懸命生きている親と子を応援したい気持ちで、親子と家族の写真撮影を続けて行きたいと思っています。
時間と場所は大きく限られますが、「今の私たちを撮っておきたい」と思われるひとりひとりに、丁寧にお応えして行けたらと思いますので、必要な方はお問合せよりご連絡ください。
長文をお読みくださり、ありがとうございました。
ひとりひとりが自分らしく充実した人生を生きて行くことができますように。
私も、子どもたちとの時間も、やりがいのある仕事も、お客様方とのつながりも、どれも諦めないで自分らしく自分の人生を納得して生きて行けるよう、これからも努力していきたいと思います。そして、ひとりひとり異なるドラマを生きる人たちに、そっと寄り添えるフォトグラファーであり続けたいと思っております。